これ以上ボキャ貧にならないために

うちの近所の街路樹は花水木だ。春に咲かせるピンクの花のイメージが強いが、今の時期はきれいに紅葉している。モミジのような華やかさはないけれども、午後の陽に透かした花水木の紅葉はハッとするほど鮮やかなガーネット色だ。葉の裏にはサクランボを小さくしたような真っ赤な実が隠れている。

ここで、あえて写真は載せない。「花水木、紅葉」でググればいくらでもきれいな写真が出てくるが、たまには頭の中で思い描く、というのもいいんじゃなかろうか?(てか、たまたまスマホ持ってなかったのね)

2週間ほど前には久しぶりに安達太良山へ行ったのだが、まさに錦秋という言葉がぴったりであった。ロープウェイで相乗りしたご夫婦が、「いろいろ行ったけどここがいちばんきれい」と言っていたのも頷ける。いくらスマホのカメラ機能が向上しても、所詮この美しさは画像ファイルには残せない。(でもこちらはいちおう掲載しておく)

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何でもすぐに写真に撮ってシェアできる昨今は、得も言われぬ色をなんとか言葉で伝えようなどと苦労しなくて済む。けれども、そのぶん我々の語彙は確実に貧相になっていると思う。

これ以上、ボキャ貧が進まないようにするには、いい文章をたくさん読んで、たくさん書くしかないだろう。

そういえば、読書の秋とも言うではないか。

仕事がら文章はけっこう読むし、県立図書館もお気に入りスポットなのだが、最近の読書はもっぱら評論だの解説だの実用的なものばかり。「いい文章」というよりは「わかりやすい文章」の追求に終始しているなあと、改めて感じる。もっと手ごたえ歯ごたえ噛みごたえのある文学作品はトンとご無沙汰だったのだが、さて、久しぶりに漱石でも読もうか。

先日、県立図書館に「漱石コーナー」が特設されてるのを見て、はじめて今年が没後100年だということを知った。思い起こせば高校生の頃、漱石が大好きでよく読んだ。小説だけでなく書簡や講演録なども読みあさり、漱石をテーマにした小論文も書いた記憶がある。

しかしまあ、吾輩や坊ちゃんはまだしも、倫敦塔や草枕などよくあんな漢字だらけの本を読んでいたものだ。いま見ると軽く驚嘆する。もしかして自分は高校生の頃のほうが賢かったのかもしれない。

それにしても、このころの人たちの書いたものは、なんというか、格が違う。「いい文章」などと評することすらおこがましい。「吾輩」のような初期の、多少おもしろおかしく書かれた平易な文章でも、そのへんの機内誌の気の利いたコラムなんかとは別次元だ。

その後の漱石の作品は、三四郎、それから、こころ、虞美人草、彼岸過ぎ迄、明暗、とだんだん暗く重くなってくるが、それでもみな朝日新聞の連載である。当時の新聞読者のリテラシーは、やはりいまと多少違う気がする。

いま借りている「孫が読む漱石」(夏目房之介)を読み終わったら、もういちどゆっくり「吾輩」から読み直そうか。来年また紅葉の話をする頃には、私のボキャブラリーも少しは豊かになっているかもしれない。

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