娘、帰る

若い頃、年末年始といえば友人と遊びに出かけるものだった。が、もう10年以上前から正月は大人しく両親のところへ帰って過ごしている。

DSC_0850両親は神奈川県川崎市のいまの住所に長いこと、私の生まれるずいぶん前から住んでいる。6年前の金婚式のときには、両親が結婚式を挙げた東京の東條會館から記念写真の撮影サービス券が、その住所へ送られてきた。50年前の顧客の連絡先が保存してあるのには感動したが、あちらも案内を送って戻ってこなかったのには驚いたのではなかろうか。

私の小さいときは、その家に父の母も同居していた。そんなこともあって、父もこの場所で生まれたものと、私はこの歳になるまで勝手に思っていたのだが、この正月、そうではないことを初めて知った。

戦時中、空襲を避けて人間が疎開したのは知っているが、建物疎開というものもあったそうだ。父の生まれは昭和8年。当時、父の両親は同じ川崎市内でも今のところから1キロ少々離れたところに家があって、父はそこで生まれた。が、戦争がはじまると、近くの工場が軍需工場に転用され、周りの家は強制的に取り壊しになったんだという。調べれば、建物疎開とは空襲による延焼を防ぐため、燃えると困る県庁や市役所、軍需工場などの周りの建物を取り壊して空き地を作ること。本格的な本土爆撃が始まった昭和19年ごろから、全国で行われたらしい。もちろん代替えの土地の手当てなどなかったため、父の家族は伝手を頼って市内を数か所点々とした後、今の場所に落ち着いたのだそうだ。

ナンセンスな比較と知りつつ、私がいま手伝っている福島の原発事故被災地の強制避難が思わず重なって見える。

父自身も、もちろん疎開していた。地方に縁故がないので、集団疎開(学童疎開)では知らない土地へ避難したという。学童疎開の対象は小学36年、二人の弟たちは一緒に行かなかったというから、おそらく父が小学3,4年のころの話だろう。疎開先では心細くて仕方なかったそうだ。食べ物といえば水っぽくて不味いサツマイモだけで、常に空腹。ごみ箱をあさって腐った夏ミカンを食べた記憶があるとも言っていた。小学校だけで5回くらい転校したというから、苦労しただろう。今でいうイジメも、なかった訳があるまい。

戦争が終わると、川崎にも進駐軍が来た。米兵の乗ったジープに子供たちが駆け寄って「ギブミーチョコレート」と叫ぶ話は本で読んだが、父も実際それをやったそうだ。本当にチョコレートをくれたのかと聞いたら、本当にくれたんだそうである。さぞやおいしかったに違いない。

その父も、昨年は病気が進行し、足腰はまだ大丈夫だが食べ物が呑み込めなくなった。胃ろうをつけて嚥下リハビリに励み、ゼリー状のものはなんとか口にできるようになったが、この正月は大好きな数の子もかまぼこも食べられない。いくらごちそうがあっても、今度は身体が受け付けなくなってしまった。目の前でお節を食べて気の毒だとは思うが、まだらボケの進行した母は平気で雑煮をほおばっている(笑)

大晦日、大量の賞味期限切れ食材、いくつも口の開いた同じ食材が詰め込まれた冷蔵庫を文句をいいながら掃除するのも、あと何回だろうか。両親の子供のころの話も、聞けるうちにもっと聞いておかなければいけないな。

DSC_0853元旦の今日は、穏やかな晴天。昔なら10分もかからずに歩いていけた近所の神社へ、途中休みながら30分以上かけて初詣に出かけた。

だれでも通る道だから淡々と歩きたい。

<公開翌日に一部追記しました。自分の記録を兼ねたブログのためしばしば追記あり〼>

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