コンビニ考

久しぶりに、コンビニでカップラーメンを買って食べた。海苔巻やおにぎりはたまに買うが、カップ麺なんて何年ぶりだろうか。なんだかものすごく味が濃く感じ、舌がピリピリするようだった。

別に、「やっぱりインスタント食品やコンビニ弁当って身体が受け付けないわ」などと気取るつもりはない。普段の食事はたしかに手作り率が高いけれども、それは福島に来てからというもの、勤め先が工業団地の真ん中で周りに店がなく、毎日弁当を持参せざるを得ない状況だったのと、収入が減って自炊のモチベーションが高まったから、というだけの話だ。

DSC_1091食に関する「意識高い系」の人たちは、コンビニで売ってる系の食品を妙に毛嫌いする傾向がある。かくいう私も、東京でサラリーマンしていた時代はコンビニ食をなるべく避けていた。11年前にヨガを始めてから多少は食べ物に気を使うようになったこともあるが、いちばんの理由は「おひとりさま+コンビニ弁当」というコンビネーションがあまりに侘しく、恥ずかしいような気がしたためである。それに、コンビニみたいな業態が広がれば電力消費も減らないし、便利さと引き換えに人間はどんどん怠惰になっていくから、コンビニとは社会の必要悪であるとさえ感じていた。

でも、福島に来てからコンビニの見方は変わった。

原発事故の避難区域で、赤字を覚悟で最初に出店してくれた小売は大手のコンビニチェーンだった。今でこそ定食を提供するような飲食店もでき始めているが、そういうものがなかった最初のころ(だけでなく今でも)、除染や復旧にあたる作業員の身体を支えてきたのは、コンビニの食べものだったのだ。避難指示下の浪江町で3年前に初の小売店としてローソンが再開したとき、先遣隊として本庁舎に帰って執務していた十数人の職員の食環境が、これで少しは改善されるかと思ったら、手を合わせて拝みたい気持ちになったものだ。

コンビニ食品の原材料表示にある、たくさんの○○剤や○○料にあからさまに眉をひそめる人もいる。でも、それらを食べ続けて長期的に人体にどんな影響があるかなど、本当のところはわからない。実験室のモルモットのように「それだけ」を摂取し続けるなら別だが、同時に他のいろんな「リスク」も取り込んでいる以上、そのうちひとつの要素の確定的影響など特定しようがないはずだ。いまの福島の被災地程度の低線量被ばくが、長期的に人体に及ぼす影響が特定できないのと同じ理屈である。

避難区域に限らず、こういう手軽で安価な食品が存在することで救われている人はたくさんいる。それに、田舎のコンビニは都会とは違う重要な役割を担っていることもわかった。地方に行けば小売店の空白地帯は多い。夜間ならなおさらだ。暗い山中を何キロも車で走って、やっとコンビニの明かりを見つけたときの安堵感。車社会では、トイレを貸してくれるという意味でもコンビニはなくてはならない休憩所なのだ。(ついでに言うと、東京人が都市銀行の支店のない地方に来たらコンビニのATMこそ頼りである。)

DSC_1087カップラーメンに話を戻そう。

ふだん食べつけていないと塩分やら添加物やら舌に刺激が強いのは確かである。原発事故避難のせいで、自分で作ったコメと野菜で自炊ができなくなったり、同居していた家族と離れて単身になったりして、スーパーやコンビニの惣菜、インスタント食品に頼るようになった人も多い。彼らはカップラーメンなど食べ慣れただろうか。

手作りの食べ物が良いのは当然だが、他人が手作りしたものは高額になる。工場で作った方が安い。都市化とはすなわち生産の分業化だ。元は兼業農家も多かった被災者の避難生活は、生産手段をなくし、やむなく都市化したのだった。

(写真は地元の郷土食づくりのイベントで提供された、おかあさんたちの手作り惣菜)


移住生活 ブログランキングへ

広告

ガス管自殺?の笑い話

先月の話になるが、正月以来1ヶ月半ぶりで川崎の実家へ行ったときのこと。

真冬の寒さで両親ともあまり出歩かなくなっていたが、幸い暖かい日があったので、運動がてら母を連れて駅まで用足しにでかけ、ついでに私も母も久しぶりに食べたかったタイ料理屋に入った。

DSC_0987 (2).JPG手元も口元も少々怪しくなってきた母は、皿に取り分けるにも口に運ぶにもボロボロとこぼすので、まるで小さな子供と食事をしているようだ。赤子に戻るという還暦はすでに20年前、いまや再び立派な成人になってるはずなのに…(笑)

老いには抗えないのは悲しいが、赤ん坊と違って昔話ができるのは楽しい。

この日、大好きなトムカーガイをほおばりながら母が問わず語りしたのは、二十歳のころ、ガス管を口にくわえて自殺のフリをしたという話だった。なんでも、気に入らない相手と結婚させられそうになり、捨て身で抗議したんだそうである。

女は高校を出たら結婚する時代だった。でも母は一度は勤めに出たいと言い張り、3年だけという条件つきで銀行に就職を許された。しかし祖母は特に口うるさく、二十歳を過ぎたら嫁に行き遅れるからと熱心に見合いの話を持ってきた。母には淡い恋心をいだいた職場の後輩がいたものの、一回くらいは仕方ないと見合いに応じる。先方は母をたいそう気に入ってくれたが、母の方は全くノーサンキューで、断りたかったが祖母がそれを許さない。どうしても嫌で、ガス管をくわえて死んでやる!とやったところ、祖父がとりなして、めでたく?縁談はなかったことになったという。

その後、銀行の仕事は約束の3年で辞め、料理や洋裁、和裁の教室に通いながら(まさに花嫁修業!)さらに2回ほど見合いをし、3人目が私の父だった。そこで観念したのは、「その前の2人よりはマシだったから」だそうである。

母の生活に関してとりわけ祖母がうるさかったという話は前にも聞いたが、まぁガス管自殺の話は初耳だった。短期記憶はかなり曖昧になっている母だが、こういう昔の記憶は鮮明である。いまのうちに、他にも笑い話ネタがないか聞きだしておかなければ!(笑)

(写真は、母と行った川崎のではなく、福島市に新しくできたタイ料理屋さんのプ―パッポンカリー)


移住生活 ブログランキングへ

書いておきたかったこと

またあの日がやってきた。

このブログは、お気楽おひとりさま移住生活 in 福島を綴る日記なので、震災とか避難とか放射能の話は普段ほとんど触れていない。けれども、私がそもそもこちらに来るきっかけは、やっぱり東日本大震災と原発事故だったし、いまでも避難してる自治体の手伝いとか、強制避難が終わってもこんどは超過疎・高齢化の中でがんばってる若者の手伝いとかしてるし、そういう意味では震災と事故があったからこそ引き続きこちらで仕事にありつけているという面もあるし、だから私にとって3月11日は、巷でいう単なる「××周年」よりも、もうちょっとだけ意味がある。だから今回だけは、このテーマで書こうと思う。

DSC_1079全町避難の浪江町役場に期限付きの支援に入って丸3年。今月末はいよいよ、町の一部で避難指示が解除される。3年前は、解除目標の「平成29年3月」なんて永遠に来ないような気がしたし、私自身もそのころまで福島にいるとは思わなかった。でも、今年の3月11日を福島で迎え、6回目(私にとっては4回目)の町の追悼式をここで見て、まもなく(たとえ一部でも)避難指示が解除される日に立ち会うことができるのは、これもご縁というほかない。それを見届けて、私の浪江町役場でのお手伝いはひとまず終わる。

福島に来るまで四半世紀の仕事人生、基本的にはずっと「稼いでナンボ」の世界で生きてきた。その世界の住人が国の経済を引っ張っているのは事実なのだが、しかし世の中には「稼いでナンボ」のロジックだけではどうにもならない現実もある。公というのは本来、そういう部分を担うものだと思う。

自分がまさか公務員になる日がくるとは思わなかったが、この3年間ほんとうにいい経験をさせてもらった。私自身は住民と直接やりとりする場面は少なかったけれど、地方の町や村、つまり基礎自治体の職員というのは本当に住民に近い。職員も窓口に来る人たちも、お互いみんな顔も名前も知っている。それなりの息苦しさはあったかしれないが、やはりのどかな田舎だ。都会の、それこそ生き馬の目を抜くような競争社会と比べれば、地方の小さな町役場など「のんびり」と表現して差し支えない職場環境だったと思う――あの原発事故が起きるまでは。

この6年間、国がいかに立派なお題目を並べようと、現場で踏ん張り、末端の人々の暮らしを支えてきたのは、紛れもなく、浪江町をはじめとする基礎自治体の職員たちである。自ら被災しながら、各方面の板挟みになりながら、住民にとっての「最後の砦」を自覚して、ここまでやるかというくらい身を粉にしている。私は3年間それをこの目で見てきた。

復旧・復興で町の予算は震災前の何倍にも膨れ上がっている。予算を執行するには人手が必要だ。ただでさえ業務量が増えているところに、選挙だ調査だシステム変更だと国政レベルのイベントが容赦なく降りかかる。避難指示が解除されて町内の本庁舎に戻るとなれば、またしても家族と離れ離れになる職員も少なくない。神さまは彼らにどれだけ試練を与えれば気が済むのかと思う。

敢えて言う。「復興」にどれだけ予算をかけても、この地域に被災前と同じ人口が戻ってくることはないだろう。経済合理性を最優先すれば、費用対効果論が出てくるのは当然だ。私の中に残っている「東京人」は、その発想にも大いに賛同する。しかし、ここに生きる人たちの顔と名前を知ってしまった「こちら側の私」は、もう「あちら側」には戻れない。そして、たとえ被災地が元通りにならなくても、新しい現実は日々確実に生まれているのだ。

誤解のないように付け加えると、私が仕事で接する地元の人たちは、役場の人もそれ以外の人も含めて、みな明るい。そして、いい意味で淡々としている。人間、何かものすごいものを突き抜けるとそうなるんだろうか。むしろ、外から「支援」に来たはずの人のほうが精神的に不安定になったりして、支援者の支援というのも本当に必要だなと思う。最近知った「共感疲労」という言葉には、私自身も思い当たることはある。けれども、幸い根が思いつめるタイプではないのと、周囲の人に恵まれたおかげで、私個人のlife in fukushima は今のところ楽しくてしょうがない。不謹慎と言われようが、実際に来て住んで楽しいという人が増えなければ、福島の将来はないこともまた事実であろう。(もっとも、私の生活圏は役場の避難先・二本松市と住居のある福島市の周辺であり、避難区域となった被災地からは遠く離れてはいるが)

このタイミングで福島に来たのは、私の人生でベストの決断だったと断言できる。あのまま東京で仕事を続けていたら、一生出会うことのなかった人々と出会い、知ることのなかった価値観を知り、見ることのなかった世界を見ることができた。その意味では、私は大震災と原発事故に感謝すらしている。

あの日あのときここにいなかった私は、語り部にはなれないという意味で「当事者」ではないし、なる必要もない。しかし「知ってしまった者」の責任はある。いろんなバランスをとりつつ、もうしばらくlife in fukushima を続けようと思っている。

直接死も関連死もふくめ、すべての犠牲者の方々のご冥福をお祈りします。合掌。


移住生活 ブログランキングへ