リピートあそばせ、ふくしま(その2)

先週末、東京から従妹が遊びに来てくれた。東京の友人たちは代わるがわる訪ねてきてくれるが、考えてみたら母以外の親族の来福は初めてだ。

父は5人兄弟、母は3人兄弟だから、いとこはたくさんいる。子供の頃は年に数回親族で集まっていたと思うが、この20年以上、たまに顔を合わせるのは葬式のときだけという状態が続いていた。それが近年、SNSのおかげで数人と再びゆるくつながることができ、今回の訪問が実現したわけだ。まったくfacebookさまさまである。

リアルで会うのは数年ぶりのAちゃん(といっても彼女も40代)は、貴重な週末を目いっぱい楽しむべく、金曜の夜に仕事を終えてから新幹線に乗って福島入りしてくれた。こういうときに、新幹線停車駅の徒歩圏内にマンションを買っておいてほんとによかったと思う。

さて、どこに連れて行こうか。

山が好きで2年ほど長野に暮らしたこともあるAちゃんだが、なんと福島は初めてだというではないか。山歩きがしたい、もちろん温泉も入りたい。桃も食べたい。美大を出たデザイナーだけに美術にも興味あり。だけど、お城見学や街歩きはしなくて可。ということで、1日目は福島~浄土平~鎌沼散策~フルーツライン~飯坂温泉、2日目は県立美術館~土湯峠~猪苗代湖~郡山と相成った。合間には私が知っている限りの「ちょっとすてきなカフェ」やお土産ショッピングタイムも組み込み、天気にもそこそこ恵まれたので、それなりに楽しんでくれたと思う。

DSCN1788 (2)りんどうが咲き始めた浄土平はいつもながら美しかったし、久々の太陽がまぶしい猪苗代湖では、家族連れやカップルに交じって念願の(!)足漕ぎスワンボートにも挑戦。私自身も旅行者気分で楽しい週末だった。

DSC_1954ちなみに、スワンボートの視界は思いのほか狭く、ハンドル操作がなにげに難しいです。w↓

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というわけで、今回もほぼ定番の観光コースだったのだが、こうして東京からのお客さんを案内する場合、土日の2日間、新幹線駅の発着という条件で旅程を考えると、どうしても直面する現実がある。

浜通りに連れていく時間がないのだ。

もともと原発被災地支援に入った身としては、避難指示の解除が進む浜通りの復興に寄与すべく、そこへ人を連れていきたい気持ちがある。が同時に、来てくれた人には福島が誇る雄大な自然と極上温泉をぜひ楽しんでもらいたい。歴史好きならやっぱりお城や城下町だろう。もちろん、あぶくま山地から海側にだって山も温泉も史跡もあるにはあるのだが、中通り~会津地方の有名どころと比べてどうしても地味なのだ。しかも、新幹線の停車駅からは片道1~2時間かかるため、帰りにちょっと寄る、ということもできない。

浜に連れていくには、リピートしてもらうか、3日以上滞在してもらうしかないのである。

だから、AちゃんもMさんもRちゃんもHさんもIさんもJちゃんもCちゃんもMちゃんもYさんも、みんな、また来てね!

(約1年前に書いた「リピートあそばせ、ふくしま」の記事はこちら。同じようなことを書いてます(笑))

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農業とともに人類の不幸は始まりき

今月初めから、キュウリ農家さんでバイトを始めた。これまでにも自家消費用のキュウリ畑で収穫体験させてもらったことはあるが、ここは専業なので規模が違う。数十メートルのキュウリのトンネルが何本も並び、さらにそういう畑が何か所にもあるのだ。1日の出荷量は500キロを超えるときもある。

DSC_1933本業がパソコン仕事なので身体を動かす副業をしたかったのと、農業というものへの興味(ビジネスとしてではなく食べ物をつくる過程への興味)から、チラシに載っていた季節限定バイトに応募した次第だが、「身体を動かす」といってもジムでマシンをやるのとは訳が違う。予想以上の重労働である。

いまのところ、選別と箱詰め、集荷場への出荷(荷の上げ下ろし)、天気がよければキュウリ畑で芯止め、蔓止めという作業が主な仕事だ。ずっとかがんでやる仕事とずっと背伸びをしてやる仕事があって、バランスがとれて良いんだか一か所に負荷がかかりすぎて良くないんだか、よくわからない。

身体が慣れていないせいもあって、最初の2、3日は腰も膝も首も悲鳴をあげ、とんでもない仕事に応募してしまったと一瞬後悔した。パートの女性たちの中では、おそらく私がいちばん若造だと思われるが、みな「暑いね~」とか言いながら何でもない顔をしてやっている。しかも毎朝自分の畑をやった後に、この農園でバイトをしているという人もいるからすごい。

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初夏にサクランボ果樹園の手伝いをしたときもそうだったが、キュウリみたいな身近な野菜でも、その生産現場を体験すると、はぁこういうことになっているのか、と学びの連続である。たとえベランダ菜園でもキュウリを育てたことのある人なら、下葉をとったり蔓をネットに固定したり、芯を止めたりという作業は多少はお馴染みなのだろうが、私にはその経験もない。こんなに手間をかけないと売り物のキュウリはできないのか… この作業はどんなにロボットやAIが進化しても絶対リプレイスできないだろうな… などと、54メートルのキュウリトンネルの中で感慨にふける。

露地もののキュウリはいまが全盛だ。一日数センチ伸びるというキュウリは、朝晩に収穫をしないと大きくなりすぎてしまう。お盆だからと成長を休んでくれる訳もなし。したがって、キュウリ農家さんは休みがないのだ。出荷の時期は週7日、基本的に早朝から夕方まで働きどおしなのである。そのせいかどうか、この農園が属しているキュウリ専業の出荷組合も、徐々に組合員が減ってきているのだという。

こうして私が腰や首に湿布薬を塗りながら出荷したキュウリは、東京の大田市場に送られ、主に首都圏のみなさんの食卓に上る(はず)。

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いまから約1万年前に農業というものが始まってから、ヒトの不幸は始まった――。それは、ベストセラーになった「サピエンス全史」を読んで目から鱗の学びだった。その感想を興奮気味に話したら、相手の人が「BIG HISTORY~宇宙開闢から380億年の『人間』史」という立派な本を贈呈してくれたのだが、それを読んでますます「狩猟採集から農耕への転換=人類の不幸の始まり」を確信した。

曰く(農業が出現した最初期の状況について)、「考古学はまた、狩猟採集民にとって必ずしも農業のほうが魅力ある生活様式とは映っていなかった点も示している。(中略)そもそもみなが農耕民になることを望んでいたわけではなかったようである。これはおそらく農業という生活様式が、狩猟採集よりも肉体的に相当にきつく、健康に良くなく、精神的に疲れることも多かったせいだろう」

農耕民として人々が完全に定住し(それ以前でも一部定住していたらしいが)、人口が増え、水利や土地をめぐって権力というものが生まれ、コミュニティが複雑化した。支配層が生まれ、都市が生まれ、そこには自分の食べ物を自分では作らない職業の人々が集まっていた。

「都市(ウルク、長安、・・・ローマなど)が威光と権力の中心だったとすれば、その資源のほとんどを供給するのが町や村だった。小作農は、ときには大地主のもとで農場労働者として働きながら、町や都市で消費される大量の農産物を生産した。あらゆる農耕文明で、大多数の一般市民から支配層へと富が流れていく様子が観察できる」

日本でも「重い年貢に苦しむ農民の姿」は時代劇などでお馴染みだけれども、驚くことに早くも紀元前2千年紀末のエジプト新王国時代の「書記のための練習帳」には、すでに「これだから小作農に身を落としてはならない」と書いてあるんだそうだ。

もちろん、現代日本の農業は農地所有が基本だし、「都市への農作物の供給」も徴税ではなく商取引という形で行われている。それでも、こういう史実を知ると、今の世の「農業離れ」もむべなるかなと思ってしまう。

でも、いまさらみんなして狩猟採集には戻れないのであるから、だれかがこの爆発的に増えた人口を、その大部分を占める都市住民を、食べさせなければならない。都市住民はせめて、自分の口に入れるものを誰がどうやって作っているのか、一度見て知っておくべきだと心から思う。

と、3年半前に福島に来るまでほとんど土を触ったこともない私が言うのもおこがましいが、単純に土にまみれるのも楽しいものである。「エクササイズ」にはならないが「運動」には違いない。地方暮らしならではのこの農家バイトが終わるころには、私も長靴・頬かむり・腕カバー姿が堂に入っているかしらん。


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只見にて、お腹が重たくなった話

只見に行ってきた。

新潟県との境にある福島県只見町は、豪雪地帯として有名である。2年前の冬、雪まつりを見にバスツアーで来たことがあるが、3メートルの積雪の中、人々は文字通り「雪に埋もれて」生活していた。雪に閉ざされるとは、こういうことを言うのか――。それはある意味圧巻ではあったが、個人的に「冬のリピートはないな」と確信したのであった。

DSC_1857だが、町の9割をブナの森林が占めるという只見、夏はさぞ美しいことだろう。ぜひ緑の時期に再訪してみたいと思いつつ、2年以上たってしまった。なにしろ、同じ県内でありながら福島市からはおいそれと日帰りできるような距離ではない。トレッキングを楽しむならできれば2泊したいところなので、実現まで少々時間がかかってしまったわけだ。

今回、2年越しの夢のブナ林&沢歩きも、実は直前の大雨であわや入山禁止というところだったのだが、普段の行いが余程よろしかったと見えて、前日までには通行規制も解除。当日も曇りときどき雨の予報が見事に外れてピーカンに晴れてくれた。

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予め観光協会のサイトで歳の近い女性のガイドさんをお願いしてあったのだが、彼女も関東からの移住組で、以前は編集の仕事をしていたというので、こちらはすっかり親近感がわいてしまい、おかげで安全かつ楽しく只見の自然を満喫できた。感謝。

お宿はもちろん温泉である。もちろん、と書いたが、実は只見には温泉が2つしかないらしい。会津の山の方は至るところでお湯が湧き出ているようなイメージがあったが、場所によっては温泉過疎地帯もあるんだね。その只見の温泉も、最初に掘り当てたのが平成になってからだというから、それほど古くない。宿のお湯は無色透明のサラサラ系だったが、隣の日帰り温泉のほうは黄褐色のトロトロ系で、なかなか良かった。

DSC_1844と、ここまでは私の「想定通り」の只見だったのだが、翌日、只見川の上流に田子倉湖と田子倉ダムという景勝地があるというので、なんの気なしに行ってみたら、なんだかとってもお腹のあたりが重くなってしまった。

森に囲まれた湖は、たしかに景勝地ではある。静かな水面には遊覧船も浮かんでいる。巨大なダムを真横から見るのも、これまた圧巻だ。このダムで水がせき止められて湖ができていることがよくわかる。

DSC_1904が、このダム湖の底には50戸290人の集落が沈んだのだという。

もちろん沈む前に住人はみな他へ引っ越したわけで、そのために死者が出たという話ではないのだが、それでもそのことを知ってしまうと、水の中から声にならない声が聞こえるような気がしてならなかった。

昭和35年になぜこのダムができたかといえば、もちろん首都圏向けの電力供給のためである。ここではいまでもJ-POWER(電源開発)が電気を作っている。田子倉だけでなく、水が豊富な福島の山間地方にはいくつもダムがつくられ、すなわち水力発電所がつくられ、戦後の首都圏への電力供給地となってきた。その歴史はなんとなく知っていたが、そのダム湖の底にはみな多かれ少なかれ、強制的に移住させられた人々の集落が沈んでいるのだということには、思いが至らなかった。

ダム建設中は賑わった只見も、できあがった発電所は期待されたほどの雇用も経済効果も生まず、地域の過疎化は進んだという。一時12,000人を超えた只見の人口は、現在4,400人を切っている。

DSC_1909浜通りで原発事故がおきたとき、「福島第一は東京の電気を作っていたんだぞ!」と、なかば非難に近い言葉が福島の人から発せられたこともあった。そのとき、東京人の私は大いに反発を覚えた。たしかにイチエフは東京の電気を作っていたが、事故がおきたこと自体は一般の東京都民のせいではなかろう、と。

でもその「非難」は、おそらくそういう福島の歴史も踏まえて口をついたのであろう。

「福島は東京の犠牲になってきた」。「都会は地方の犠牲の上に成り立っている」。そういうメンタリティを私は好まなかったし、理論として正しいとも思ってこなかった。が、地方に移住していろんなものを見聞きするうちに、またいろんな本を読むうちに、だんだんと「そういう面もあるのかもしれない」と感じるようになってきている。

そしてそれは、誰のせいでもないのだけれど。


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