母と神谷と戦争の記憶

いちおう「復興支援」という名目で福島に来て仕事を始めたとき、自己紹介で「福島には縁もゆかりもなかったんですが」というような挨拶をしたことがあったかと思う。でも実はそれは正しくない。

最近まできちんと認識していなかったのだが、母方の祖父母の生まれは現在の福島県いわき市なのだ。祖父は当時の平町、祖母はその隣の神谷村の出身である。たしかに子供のころ、「たいら」とか「かべや」という地名は聞いた覚えがある。実際連れていかれたこともあるらしい。けれども、残念ながら当地の記憶はまったくない。「かべや」が「壁屋」ではなく「神谷」と書くことを知ったのは、恥ずかしながらつい数日前だ。

その神谷村は1950年に平市に編入され、その後1966年に14市町村大合併で現在のいわき市になったという。地図で見ると、現在のいわき市平地区の一部にかろうじて地名が残っている。

以下、先日実家の母と食事をしながら聞き出したことの備忘録である。

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私を生む前の母。新婚で神谷を訪れたときの写真らしい。

祖父の実家は平で商売をしていた。店番をしていた祖父が、毎日店の前を通る女学生を品定めし、「いちばん丈夫そうなのを」と選んだのが祖母だった、という話は、本当かどうか知らないが母からはよく聞かされている。(実際見る目があったのだろう。祖母は病気入院などすることもなく100歳まで生きて、大往生を遂げた。)

が、なんでも曽祖父の後妻さんが金を持ち逃げしたとかで店をたたむことになり、祖父母は上京。日本橋で母が生まれるころには、祖父の実家はもうなかったらしい。

母が小学校に上がった年に東京の空襲が始まり、母は神谷にある祖母の実家に疎開した。こちらは武家の末裔だっだとかで(真偽のほどは定かでないが)、母いわく欄間には薙刀が飾ってあったそうだ。それにしてもまだ就学前の弟と2人、親族の家とはいえ親と離れて暮らすのは、なかなか寂しかっただろう。母恋しくて泣く弟の手を引き、自分も泣きたいのをこらえて散歩に出かけ、レンゲソウを摘んで輪っかを作って遊んだと言っていた。

しかし、福島の沿岸部にもたしか空襲はあったはずである。今般の東日本大震災で被災した浜通りの高齢の方が、戦争で家をなくし、今度は津波で家をなくしたと嘆いていたのを思い出し、母に聞いてみると、たしかに「神谷の家から平のまちが燃えるのが見えた」という。1945年の初めからは全国で本土空襲が始まっていたのだ。

母によると、低空飛行の爆撃機が田んぼで農作業をしている人を狙い打ちにすることもあったそうである。そんな状況で、母はかすかな爆撃機の音を聞いても真っ先に防空壕に飛び込み、行方不明騒ぎになったこともあったらしい。

ただ、幸いなことに食べ物にはさほど困らなかったようだ。ひもじい思いをしたのはむしろ終戦後で、疎開中はお腹をすかせて辛かった記憶はないんだという。転校した疎開先の小学校では、みんなに「東京から来た子」と言われたというので、どんないじめを受けたのかと思いきや、逆に「ちやほやされた」というから率直に驚く。身寄りも友達もいない集団疎開先で、辛くひもじい思いをした父とは対照的である(以前に書いた父の学童疎開の話はこちら)。疎開が終わって母が東京に帰るときなど、クラス中で列車を見送りに来てくれたのだそうだ。福島の人は当時から優しいのかもしれない。

そのとき母が乗ったのは常磐線だ。電化したのはかなり遅く1963年だというから、当時はまだ蒸気機関車だったはずである。そのせいかどうか、母は今でも長距離列車の場合は電車と言わずに汽車という。

ちなみにその常磐線、大震災・原発事故の影響で不通になっていた区間の運転再開が徐々に進み、あと1区間を残すのみとなった。全線が開通したら、母が乗った平~上野をぜひ旅してみたいものである。

 

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