Perspective and imagination

本当に。雨がたくさん降っただけで、本当にこんなにたくさん人が亡くなってしまうものなのか。いま私にできることは多少の寄付と、天に向かって「もう勘弁してください」と祈ることくらいだ。

「自然のおそろしさ」などというが、恐ろしいのは人間から見た場合であって、巨大な台風も地震も津波も噴火も、「自然」の側からいえば淡々とした物理現象に過ぎない。そういう現象自体は人間の力でどうしようもないが、それによって人間の身に降りかかる災いの程度は、人間の側の準備や工夫によって減殺できる可能性はある。それをしなかったために被害が出た(増えた)と判断されれば、その部分は「人災」と呼ばれる。

7年前の東日本大震災では、津波は天災だから仕方ないが、原発事故は人災だったということになっている。でも、あれほどの高さの津波が来ることを想定してしかるべき対策をとっていなかった、という意味で東電が「有罪」なのであれば、あれほどの高さの津波が来ることを想定して、しかるべき高さの防波堤を建設したりまじめな避難訓練を実施したりしていなかった、という宮城・岩手の沿岸自治体、あるいは国も、同じように「有罪」ではないか――。そういう視点があることを最近になって知り、私は妙に納得した。別に東電を無罪放免すべきとは言っていないが、物事を見るにはパースペクティブが必要だということだ。

実際、津波被害が甚大だった宮城県の一自治体で震災伝承活動をしている人は、「ちゃんと準備をして正しい判断をしていれば、あれだけの人数は死なずに済んだはず」という現実に向き合う必要を訴えていた。

天災がおこると、どこから先が「人災」なのかという議論は時間をおいて大抵出てくる。その際、犯人捜しも必要だが、自分自身にも「やればできたのにやらなかったこと」がないか、一人ひとりが省みることでしか、本当の「次への備え」は生まれないと思う。

・・・などと解説者気取りのことを偉そうに言えるのも自分が当事者ではないからだが、せめて想像をたくましくして、自分ならどうする、という思考訓練から逃げないでおきたい。

各地の災害で日常生活を失った人たちが、一日も早く心安らかな暮らしを取り戻せますように。

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Perspective and imagination” への2件のフィードバック

  1. どこまで防波堤の高さが必要か、決めるのは本当に難しいなと思います。ずいぶん前のことなのですが、逆の意見もどこかで読んだ記憶があります。防波堤があったために、津波が来る前に水が一時的に引いた時や、津波が来た時の海面を見ることができなかったと。私は想像することしかできないけれど、地震、津波、台風や今回のような局地的な大雨に対して、人間はどこまで何をすれば少しでも命を守ることができるのだろう?と考えます。

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    1. Sachieさん、いつもありがとうございます。
      そうですね、防潮堤の高さはいろいろ議論があると思います。どんな高さでも防潮堤があれば大丈夫というのではなくて、ちゃんと実効性のある避難計画を作り訓練をしておくことが、いざというときの判断を誤らないために必要なのだと思います。あの津波でも、逃げろと言われたのに逃げなかったという方がたくさんいたのは事実で、それも含めて津波にも「人災」の部分はあったのではないかと。

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