いつまでアニバーサリーなんだろう

オリンピックでやたらと賑やかだった2月が終わり、3月に入って全国テレビでいきなり東日本大震災関連の特番が増えたと思ったら、11日を過ぎるとまたパッタリなくなった。毎年のことで、別に怪しからんとも思わない。年月が過ぎれば報道量が減るのは当然のことだと思うが、全国とローカルとの情報量のギャップは単純にオモシロイなと思う。

福島県に住んでいると、震災、というか原発事故はまだ日々オンゴーイングの事柄で、ローカルニュースで原発、避難区域、被災者という言葉が出ない日はまずない。各地の放射線量を伝えるコーナーも、天気予報とワンセットでもう「暮らしの一部」みたいな感じだ。とはいえ福島県も広いから、直接の被災地とそれ以外の場所とでは「3月11日」の意味には濃淡がある。

1年前の3月11日、まだ私は浪江町役場に勤めていた。当時はまだ全町避難中で(その20日後に一部で避難指示が解除された)、その日は例年通り、慰霊祭や追悼式、海岸では行方不明者の一斉捜索も行われた。私自身がそういうシゴトに直接携わったわけではないが、常にそういう現場に近いところにいたし、日常的にも除染、賠償、避難、復旧・復興、そういうボキャブラリに囲まれていたので、大震災と原発事故はある意味「日常」であり「身近な」存在だったと思う。

その役場を離れて約1年たった今年の3月11日は、どうも感じ方が違った。思い出したようにプッシュしてくるマスコミの特集を見ていて、昨年までは感じなかった、なんとも胸苦しい気分になったのだ。昨年までなら冷静に見られたはずの「フクシマ」関連の特集も、途中でチャネルを変えたくなった。

なぜだろうと考えてみるに、それはおそらく、自分だって1年間忘れていたじゃないか、という「疚しさ」ではないかと思い至る。無論、フリーになってから受けた仕事で被災地を取材することは何度もあったから、震災・原発事故を完全に忘れていたわけではない。ローカルニュースが毎日リマインドしてくれるのも上述の通りだ。それでも被災地という「現場」を離れて1年近くも経つと、同じ県民であっても記憶は薄れる。いや、できごと自体の記憶が薄れるのは当然なのだが、あのとき「学んだはずのこと」すら忘れてしまっている。それを思い出させられる胸苦しさなのだ、きっと。今年のアニバーサリーに何か月ぶりかで浪江に向かったのは、日曜日でイベントをやっていたからとか、単に仕事がなくて暇だったから、というだけではない。おそらくその疚しさに自分で落とし前をつけたかったからだと思う。

果たして、11日を過ぎたら胸苦しさもパタッと止んだ。ちゃんと落とし前がつけられたからではなく、そういう報道がパタッと止んだせいだろう。所詮そんな程度のものなのだ。私があのとき「学んだはずのこと」も、年を追うごとにそうやって風化していくのは止められない。

が、それでも。

それでも、私のなかで何かがそれに抗うだろうと思いたい。

(写真は浪江町大平山の慰霊碑)

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只見にて、お腹が重たくなった話

只見に行ってきた。

新潟県との境にある福島県只見町は、豪雪地帯として有名である。2年前の冬、雪まつりを見にバスツアーで来たことがあるが、3メートルの積雪の中、人々は文字通り「雪に埋もれて」生活していた。雪に閉ざされるとは、こういうことを言うのか――。それはある意味圧巻ではあったが、個人的に「冬のリピートはないな」と確信したのであった。

DSC_1857だが、町の9割をブナの森林が占めるという只見、夏はさぞ美しいことだろう。ぜひ緑の時期に再訪してみたいと思いつつ、2年以上たってしまった。なにしろ、同じ県内でありながら福島市からはおいそれと日帰りできるような距離ではない。トレッキングを楽しむならできれば2泊したいところなので、実現まで少々時間がかかってしまったわけだ。

今回、2年越しの夢のブナ林&沢歩きも、実は直前の大雨であわや入山禁止というところだったのだが、普段の行いが余程よろしかったと見えて、前日までには通行規制も解除。当日も曇りときどき雨の予報が見事に外れてピーカンに晴れてくれた。

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予め観光協会のサイトで歳の近い女性のガイドさんをお願いしてあったのだが、彼女も関東からの移住組で、以前は編集の仕事をしていたというので、こちらはすっかり親近感がわいてしまい、おかげで安全かつ楽しく只見の自然を満喫できた。感謝。

お宿はもちろん温泉である。もちろん、と書いたが、実は只見には温泉が2つしかないらしい。会津の山の方は至るところでお湯が湧き出ているようなイメージがあったが、場所によっては温泉過疎地帯もあるんだね。その只見の温泉も、最初に掘り当てたのが平成になってからだというから、それほど古くない。宿のお湯は無色透明のサラサラ系だったが、隣の日帰り温泉のほうは黄褐色のトロトロ系で、なかなか良かった。

DSC_1844と、ここまでは私の「想定通り」の只見だったのだが、翌日、只見川の上流に田子倉湖と田子倉ダムという景勝地があるというので、なんの気なしに行ってみたら、なんだかとってもお腹のあたりが重くなってしまった。

森に囲まれた湖は、たしかに景勝地ではある。静かな水面には遊覧船も浮かんでいる。巨大なダムを真横から見るのも、これまた圧巻だ。このダムで水がせき止められて湖ができていることがよくわかる。

DSC_1904が、このダム湖の底には50戸290人の集落が沈んだのだという。

もちろん沈む前に住人はみな他へ引っ越したわけで、そのために死者が出たという話ではないのだが、それでもそのことを知ってしまうと、水の中から声にならない声が聞こえるような気がしてならなかった。

昭和35年になぜこのダムができたかといえば、もちろん首都圏向けの電力供給のためである。ここではいまでもJ-POWER(電源開発)が電気を作っている。田子倉だけでなく、水が豊富な福島の山間地方にはいくつもダムがつくられ、すなわち水力発電所がつくられ、戦後の首都圏への電力供給地となってきた。その歴史はなんとなく知っていたが、そのダム湖の底にはみな多かれ少なかれ、強制的に移住させられた人々の集落が沈んでいるのだということには、思いが至らなかった。

ダム建設中は賑わった只見も、できあがった発電所は期待されたほどの雇用も経済効果も生まず、地域の過疎化は進んだという。一時12,000人を超えた只見の人口は、現在4,400人を切っている。

DSC_1909浜通りで原発事故がおきたとき、「福島第一は東京の電気を作っていたんだぞ!」と、なかば非難に近い言葉が福島の人から発せられたこともあった。そのとき、東京人の私は大いに反発を覚えた。たしかにイチエフは東京の電気を作っていたが、事故がおきたこと自体は一般の東京都民のせいではなかろう、と。

でもその「非難」は、おそらくそういう福島の歴史も踏まえて口をついたのであろう。

「福島は東京の犠牲になってきた」。「都会は地方の犠牲の上に成り立っている」。そういうメンタリティを私は好まなかったし、理論として正しいとも思ってこなかった。が、地方に移住していろんなものを見聞きするうちに、またいろんな本を読むうちに、だんだんと「そういう面もあるのかもしれない」と感じるようになってきている。

そしてそれは、誰のせいでもないのだけれど。


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ホウシャノウ?ナンダソレハと花は云ひ

バイショウキン?シリマセンネと草は云ふ

「トウホクデ ヨカッタ」ナンテ ソノトオリ

コンナニキレイナ バショダモノ

ここで芽吹いた草木たち 一生ここで仕合はせる

森に変わった田んぼでは

ほうほけきょ きょ ほうほけきょ

ココハ「キカンコンナンクイキ」トカ?

ニンゲンノコトバ ムツカシイ

花も草も木も ただそこに

風に吹かれてそこにゐる

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(浪江町・津島地区にて)

 

コンビニ考

久しぶりに、コンビニでカップラーメンを買って食べた。海苔巻やおにぎりはたまに買うが、カップ麺なんて何年ぶりだろうか。なんだかものすごく味が濃く感じ、舌がピリピリするようだった。

別に、「やっぱりインスタント食品やコンビニ弁当って身体が受け付けないわ」などと気取るつもりはない。普段の食事はたしかに手作り率が高いけれども、それは福島に来てからというもの、勤め先が工業団地の真ん中で周りに店がなく、毎日弁当を持参せざるを得ない状況だったのと、収入が減って自炊のモチベーションが高まったから、というだけの話だ。

DSC_1091食に関する「意識高い系」の人たちは、コンビニで売ってる系の食品を妙に毛嫌いする傾向がある。かくいう私も、東京でサラリーマンしていた時代はコンビニ食をなるべく避けていた。11年前にヨガを始めてから多少は食べ物に気を使うようになったこともあるが、いちばんの理由は「おひとりさま+コンビニ弁当」というコンビネーションがあまりに侘しく、恥ずかしいような気がしたためである。それに、コンビニみたいな業態が広がれば電力消費も減らないし、便利さと引き換えに人間はどんどん怠惰になっていくから、コンビニとは社会の必要悪であるとさえ感じていた。

でも、福島に来てからコンビニの見方は変わった。

原発事故の避難区域で、赤字を覚悟で最初に出店してくれた小売は大手のコンビニチェーンだった。今でこそ定食を提供するような飲食店もでき始めているが、そういうものがなかった最初のころ(だけでなく今でも)、除染や復旧にあたる作業員の身体を支えてきたのは、コンビニの食べものだったのだ。避難指示下の浪江町で3年前に初の小売店としてローソンが再開したとき、先遣隊として本庁舎に帰って執務していた十数人の職員の食環境が、これで少しは改善されるかと思ったら、手を合わせて拝みたい気持ちになったものだ。

コンビニ食品の原材料表示にある、たくさんの○○剤や○○料にあからさまに眉をひそめる人もいる。でも、それらを食べ続けて長期的に人体にどんな影響があるかなど、本当のところはわからない。実験室のモルモットのように「それだけ」を摂取し続けるなら別だが、同時に他のいろんな「リスク」も取り込んでいる以上、そのうちひとつの要素の確定的影響など特定しようがないはずだ。いまの福島の被災地程度の低線量被ばくが、長期的に人体に及ぼす影響が特定できないのと同じ理屈である。

避難区域に限らず、こういう手軽で安価な食品が存在することで救われている人はたくさんいる。それに、田舎のコンビニは都会とは違う重要な役割を担っていることもわかった。地方に行けば小売店の空白地帯は多い。夜間ならなおさらだ。暗い山中を何キロも車で走って、やっとコンビニの明かりを見つけたときの安堵感。車社会では、トイレを貸してくれるという意味でもコンビニはなくてはならない休憩所なのだ。(ついでに言うと、東京人が都市銀行の支店のない地方に来たらコンビニのATMこそ頼りである。)

DSC_1087カップラーメンに話を戻そう。

ふだん食べつけていないと塩分やら添加物やら舌に刺激が強いのは確かである。原発事故避難のせいで、自分で作ったコメと野菜で自炊ができなくなったり、同居していた家族と離れて単身になったりして、スーパーやコンビニの惣菜、インスタント食品に頼るようになった人も多い。彼らはカップラーメンなど食べ慣れただろうか。

手作りの食べ物が良いのは当然だが、他人が手作りしたものは高額になる。工場で作った方が安い。都市化とはすなわち生産の分業化だ。元は兼業農家も多かった被災者の避難生活は、生産手段をなくし、やむなく都市化したのだった。

(写真は地元の郷土食づくりのイベントで提供された、おかあさんたちの手作り惣菜)


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書いておきたかったこと

またあの日がやってきた。

このブログは、お気楽おひとりさま移住生活 in 福島を綴る日記なので、震災とか避難とか放射能の話は普段ほとんど触れていない。けれども、私がそもそもこちらに来るきっかけは、やっぱり東日本大震災と原発事故だったし、いまでも避難してる自治体の手伝いとか、強制避難が終わってもこんどは超過疎・高齢化の中でがんばってる若者の手伝いとかしてるし、そういう意味では震災と事故があったからこそ引き続きこちらで仕事にありつけているという面もあるし、だから私にとって3月11日は、巷でいう単なる「××周年」よりも、もうちょっとだけ意味がある。だから今回だけは、このテーマで書こうと思う。

DSC_1079全町避難の浪江町役場に期限付きの支援に入って丸3年。今月末はいよいよ、町の一部で避難指示が解除される。3年前は、解除目標の「平成29年3月」なんて永遠に来ないような気がしたし、私自身もそのころまで福島にいるとは思わなかった。でも、今年の3月11日を福島で迎え、6回目(私にとっては4回目)の町の追悼式をここで見て、まもなく(たとえ一部でも)避難指示が解除される日に立ち会うことができるのは、これもご縁というほかない。それを見届けて、私の浪江町役場でのお手伝いはひとまず終わる。

福島に来るまで四半世紀の仕事人生、基本的にはずっと「稼いでナンボ」の世界で生きてきた。その世界の住人が国の経済を引っ張っているのは事実なのだが、しかし世の中には「稼いでナンボ」のロジックだけではどうにもならない現実もある。公というのは本来、そういう部分を担うものだと思う。

自分がまさか公務員になる日がくるとは思わなかったが、この3年間ほんとうにいい経験をさせてもらった。私自身は住民と直接やりとりする場面は少なかったけれど、地方の町や村、つまり基礎自治体の職員というのは本当に住民に近い。職員も窓口に来る人たちも、お互いみんな顔も名前も知っている。それなりの息苦しさはあったかしれないが、やはりのどかな田舎だ。都会の、それこそ生き馬の目を抜くような競争社会と比べれば、地方の小さな町役場など「のんびり」と表現して差し支えない職場環境だったと思う――あの原発事故が起きるまでは。

この6年間、国がいかに立派なお題目を並べようと、現場で踏ん張り、末端の人々の暮らしを支えてきたのは、紛れもなく、浪江町をはじめとする基礎自治体の職員たちである。自ら被災しながら、各方面の板挟みになりながら、住民にとっての「最後の砦」を自覚して、ここまでやるかというくらい身を粉にしている。私は3年間それをこの目で見てきた。

復旧・復興で町の予算は震災前の何倍にも膨れ上がっている。予算を執行するには人手が必要だ。ただでさえ業務量が増えているところに、選挙だ調査だシステム変更だと国政レベルのイベントが容赦なく降りかかる。避難指示が解除されて町内の本庁舎に戻るとなれば、またしても家族と離れ離れになる職員も少なくない。神さまは彼らにどれだけ試練を与えれば気が済むのかと思う。

敢えて言う。「復興」にどれだけ予算をかけても、この地域に被災前と同じ人口が戻ってくることはないだろう。経済合理性を最優先すれば、費用対効果論が出てくるのは当然だ。私の中に残っている「東京人」は、その発想にも大いに賛同する。しかし、ここに生きる人たちの顔と名前を知ってしまった「こちら側の私」は、もう「あちら側」には戻れない。そして、たとえ被災地が元通りにならなくても、新しい現実は日々確実に生まれているのだ。

誤解のないように付け加えると、私が仕事で接する地元の人たちは、役場の人もそれ以外の人も含めて、みな明るい。そして、いい意味で淡々としている。人間、何かものすごいものを突き抜けるとそうなるんだろうか。むしろ、外から「支援」に来たはずの人のほうが精神的に不安定になったりして、支援者の支援というのも本当に必要だなと思う。最近知った「共感疲労」という言葉には、私自身も思い当たることはある。けれども、幸い根が思いつめるタイプではないのと、周囲の人に恵まれたおかげで、私個人のlife in fukushima は今のところ楽しくてしょうがない。不謹慎と言われようが、実際に来て住んで楽しいという人が増えなければ、福島の将来はないこともまた事実であろう。(もっとも、私の生活圏は役場の避難先・二本松市と住居のある福島市の周辺であり、避難区域となった被災地からは遠く離れてはいるが)

このタイミングで福島に来たのは、私の人生でベストの決断だったと断言できる。あのまま東京で仕事を続けていたら、一生出会うことのなかった人々と出会い、知ることのなかった価値観を知り、見ることのなかった世界を見ることができた。その意味では、私は大震災と原発事故に感謝すらしている。

あの日あのときここにいなかった私は、語り部にはなれないという意味で「当事者」ではないし、なる必要もない。しかし「知ってしまった者」の責任はある。いろんなバランスをとりつつ、もうしばらくlife in fukushima を続けようと思っている。

直接死も関連死もふくめ、すべての犠牲者の方々のご冥福をお祈りします。合掌。


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