夜が長くなると酒と考え事が増える

10月というのは、あっという間に季節が進む。

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上旬に両親が来福した。まださほど寒くないが、磐梯吾妻スカイラインの紅葉は始まっている。絶景ドライブをして、この時期の浄土平の得も言われぬ美しさを見せてやりたい。そう考えての日程設定だったが、その数週間前からなんと吾妻山の噴火警戒レベルが引き上げられ、半径1.5キロ内が立ち入り禁止に。スカイラインは全面通行止め、浄土平も行かれなくなってしまった。

しかも、前日まで晴れていたのが両親の到着日から雲行きがあやしくなり、翌日は朝から雨模様である。だれかの普段の心がけがよほど悪いらしい(笑)。それでも温泉宿に2泊し、ごちそうを食べ、3日間多少なりとも親孝行したような気にはなれた。

囲炉裏端

二人とも3年前に大病し、まさか二人だけでまた新幹線に乗って遠出するなど到底できるようになると思わなかった。が、80代になっても人間にはちゃんと回復する力があるのだと知り、あらためて感動する。

といっても、歩くスピード、足元のおぼつかなさ、着替えや食事のときの所作など、身体能力的にはおそらく幼稚園児程度ではなかろうか。幼稚園児と違うのは、これから「できるようになること」ではなく「できなくなること」が増えていくということだ。しかも、「当たり前にできていた」ときの記憶を保ちながら。そのフラストレーションといかに折り合いを付け、受け入れ、ひとつずつ「手放して」いくか。葛藤も含めたその姿を子供に見せてやるという、親の大事な仕事のひとつを、彼らは立派にやってくれている。

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さて、それから2週間で、中通りの低地でもあっという間に紅葉が進んだ。「名所」によくあるイチョウの黄金一色、モミジの紅一色、もきれいだが、どこにでもある里山の紅葉は文字通り「錦」である。緑~黄緑~黄~橙~赤まで、自然の配色は見事の一言だ。先週末はこれ以上ないくらいの晴天だったので、霊山という名勝に出かけた。昨年も一昨年も、この時期に歩いた覚えがある。大した山ではないが、今の私には2時間のハイキングでも十分。なんにしろ、自分の脚で歩けるというのは有難いことだ。

帰りにゆっくりあづま温泉に入っていたら、もう日暮れである。露天風呂から遠く眺める福島市街に灯がまたたき始める。いつまでも見ていられる風景だ。途中、コンビニでもらった商品引換券でビールをゲットして帰宅。秋の夜長、なるべく酒量を増やさないようにするのが目標である。でも酒を飲めるのも健康な証拠。ありがたく今夜もいただきますw


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ただいまふくしま

こんどは東京駅から新幹線に乗って福島へ向かう。

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実家近くのお宅の金柑

年末年始を1週間ほど川崎の実家で過ごすと心身に異常を来す寸前の状態になっているので、車内で爆睡してリセットする。目が覚めるとちょうど郡山あたりだ。眠い目で窓の外を見ると、右側(東)と左側(西)では空の色が違うのが面白い。彼方が海の西側は青空の面積が比較的多いが、東側の奥羽山脈には雪雲がかかり、白い空の面積が多いのである。ことほど福島の天気はバラエティに富んでいる。

福島駅についたら、三が日に降ったらしい雪の名残がそこここにあったが、道路は乾いていたのでほっとした。同じ中通りでも、たとえば郡山市と比べて福島市内は山に近いため比較的雪が多いのだが、かといって会津ほどの本格的な雪国ではなく、降雪量も除雪も中途半端でいささか気持ち悪い。この時期は何日も雪が降り続かないことを祈るばかりだ。

さて。正月を実家で両親と過ごして心身に異常を来すとは失敬な物言いだとは思うが、いつもの自分の生活ペースと全く違うのだから仕方ない。特に、食べたくない時でも一緒に食べないといけないのは辛い。が、私の母を含め、おそらく世の中の主婦という人々はみな多かれ少なかれそういう食生活を強いられるのだと思えば、主婦になり損ねた私も年に一度くらいは我慢しなきゃ罰があたるだろう。

その両親も、近所に住む甲斐性ある弟と介護サービスのおかげで、なんとか自立した生活ができている。

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今年正月の両親
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昨年正月の両親

昨年と比べてなんとなく余裕が出てきたように見えるのは、気のせいかしらん?(笑)着てるコートが二人とも去年と同じなのはご愛敬。元気で長生き、よろしくお願いしたいものだ。

正月休みは例年通り友人たちとしゃべりまくったが、もっぱら親の介護や病気の話に花が咲くのも例年通り。今年それに加えて盛り上がったのは「陶芸体験でマイ骨壺づくり」である。私の骨は海か山に撒いてほしいので、気の置けない友人2人に、よもや骨壺に入れて墓の下には埋めてくれるな、そんなことしたら化けて出てやる、と念押ししたら、よーし化けて出てくるように骨壺作って入れてやる、という想定外の展開になってしまった。まあ、墓の下でなく飾り棚に置いといてくれるなら、骨の一部くらい小さな壺に入ってもいいか。そんなら3人でおそろいの骨壺つくろうか、ということになり、この春2人には作陶体験がてら福島に遊びに来てもらう予定である。

なんとも楽しみな2018年の始まり始まり!w


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母と神谷と戦争の記憶

いちおう「復興支援」という名目で福島に来て仕事を始めたとき、自己紹介で「福島には縁もゆかりもなかったんですが」というような挨拶をしたことがあったかと思う。でも実はそれは正しくない。

最近まできちんと認識していなかったのだが、母方の祖父母の生まれは現在の福島県いわき市なのだ。祖父は当時の平町、祖母はその隣の神谷村の出身である。たしかに子供のころ、「たいら」とか「かべや」という地名は聞いた覚えがある。実際連れていかれたこともあるらしい。けれども、残念ながら当地の記憶はまったくない。「かべや」が「壁屋」ではなく「神谷」と書くことを知ったのは、恥ずかしながらつい数日前だ。

その神谷村は1950年に平市に編入され、その後1966年に14市町村大合併で現在のいわき市になったという。地図で見ると、現在のいわき市平地区の一部にかろうじて地名が残っている。

以下、先日実家の母と食事をしながら聞き出したことの備忘録である。

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私を生む前の母。新婚で神谷を訪れたときの写真らしい。

祖父の実家は平で商売をしていた。店番をしていた祖父が、毎日店の前を通る女学生を品定めし、「いちばん丈夫そうなのを」と選んだのが祖母だった、という話は、本当かどうか知らないが母からはよく聞かされている。(実際見る目があったのだろう。祖母は病気入院などすることもなく100歳まで生きて、大往生を遂げた。)

が、なんでも曽祖父の後妻さんが金を持ち逃げしたとかで店をたたむことになり、祖父母は上京。日本橋で母が生まれるころには、祖父の実家はもうなかったらしい。

母が小学校に上がった年に東京の空襲が始まり、母は神谷にある祖母の実家に疎開した。こちらは武家の末裔だっだとかで(真偽のほどは定かでないが)、母いわく欄間には薙刀が飾ってあったそうだ。それにしてもまだ就学前の弟と2人、親族の家とはいえ親と離れて暮らすのは、なかなか寂しかっただろう。母恋しくて泣く弟の手を引き、自分も泣きたいのをこらえて散歩に出かけ、レンゲソウを摘んで輪っかを作って遊んだと言っていた。

しかし、福島の沿岸部にもたしか空襲はあったはずである。今般の東日本大震災で被災した浜通りの高齢の方が、戦争で家をなくし、今度は津波で家をなくしたと嘆いていたのを思い出し、母に聞いてみると、たしかに「神谷の家から平のまちが燃えるのが見えた」という。1945年の初めからは全国で本土空襲が始まっていたのだ。

母によると、低空飛行の爆撃機が田んぼで農作業をしている人を狙い打ちにすることもあったそうである。そんな状況で、母はかすかな爆撃機の音を聞いても真っ先に防空壕に飛び込み、行方不明騒ぎになったこともあったらしい。

ただ、幸いなことに食べ物にはさほど困らなかったようだ。ひもじい思いをしたのはむしろ終戦後で、疎開中はお腹をすかせて辛かった記憶はないんだという。転校した疎開先の小学校では、みんなに「東京から来た子」と言われたというので、どんないじめを受けたのかと思いきや、逆に「ちやほやされた」というから率直に驚く。身寄りも友達もいない集団疎開先で、辛くひもじい思いをした父とは対照的である(以前に書いた父の学童疎開の話はこちら)。疎開が終わって母が東京に帰るときなど、クラス中で列車を見送りに来てくれたのだそうだ。福島の人は当時から優しいのかもしれない。

そのとき母が乗ったのは常磐線だ。電化したのはかなり遅く1963年だというから、当時はまだ蒸気機関車だったはずである。そのせいかどうか、母は今でも長距離列車の場合は電車と言わずに汽車という。

ちなみにその常磐線、大震災・原発事故の影響で不通になっていた区間の運転再開が徐々に進み、あと1区間を残すのみとなった。全線が開通したら、母が乗った平~上野をぜひ旅してみたいものである。

 

ガス管自殺?の笑い話

先月の話になるが、正月以来1ヶ月半ぶりで川崎の実家へ行ったときのこと。

真冬の寒さで両親ともあまり出歩かなくなっていたが、幸い暖かい日があったので、運動がてら母を連れて駅まで用足しにでかけ、ついでに私も母も久しぶりに食べたかったタイ料理屋に入った。

DSC_0987 (2).JPG手元も口元も少々怪しくなってきた母は、皿に取り分けるにも口に運ぶにもボロボロとこぼすので、まるで小さな子供と食事をしているようだ。赤子に戻るという還暦はすでに20年前、いまや再び立派な成人になってるはずなのに…(笑)

老いには抗えないのは悲しいが、赤ん坊と違って昔話ができるのは楽しい。

この日、大好きなトムカーガイをほおばりながら母が問わず語りしたのは、二十歳のころ、ガス管を口にくわえて自殺のフリをしたという話だった。なんでも、気に入らない相手と結婚させられそうになり、捨て身で抗議したんだそうである。

女は高校を出たら結婚する時代だった。でも母は一度は勤めに出たいと言い張り、3年だけという条件つきで銀行に就職を許された。しかし祖母は特に口うるさく、二十歳を過ぎたら嫁に行き遅れるからと熱心に見合いの話を持ってきた。母には淡い恋心をいだいた職場の後輩がいたものの、一回くらいは仕方ないと見合いに応じる。先方は母をたいそう気に入ってくれたが、母の方は全くノーサンキューで、断りたかったが祖母がそれを許さない。どうしても嫌で、ガス管をくわえて死んでやる!とやったところ、祖父がとりなして、めでたく?縁談はなかったことになったという。

その後、銀行の仕事は約束の3年で辞め、料理や洋裁、和裁の教室に通いながら(まさに花嫁修業!)さらに2回ほど見合いをし、3人目が私の父だった。そこで観念したのは、「その前の2人よりはマシだったから」だそうである。

母の生活に関してとりわけ祖母がうるさかったという話は前にも聞いたが、まぁガス管自殺の話は初耳だった。短期記憶はかなり曖昧になっている母だが、こういう昔の記憶は鮮明である。いまのうちに、他にも笑い話ネタがないか聞きだしておかなければ!(笑)

(写真は、母と行った川崎のではなく、福島市に新しくできたタイ料理屋さんのプ―パッポンカリー)


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娘、帰る

若い頃、年末年始といえば友人と遊びに出かけるものだった。が、もう10年以上前から正月は大人しく両親のところへ帰って過ごしている。

DSC_0850両親は神奈川県川崎市のいまの住所に長いこと、私の生まれるずいぶん前から住んでいる。6年前の金婚式のときには、両親が結婚式を挙げた東京の東條會館から記念写真の撮影サービス券が、その住所へ送られてきた。50年前の顧客の連絡先が保存してあるのには感動したが、あちらも案内を送って戻ってこなかったのには驚いたのではなかろうか。

私の小さいときは、その家に父の母も同居していた。そんなこともあって、父もこの場所で生まれたものと、私はこの歳になるまで勝手に思っていたのだが、この正月、そうではないことを初めて知った。

戦時中、空襲を避けて人間が疎開したのは知っているが、建物疎開というものもあったそうだ。父の生まれは昭和8年。当時、父の両親は同じ川崎市内でも今のところから1キロ少々離れたところに家があって、父はそこで生まれた。が、戦争がはじまると、近くの工場が軍需工場に転用され、周りの家は強制的に取り壊しになったんだという。調べれば、建物疎開とは空襲による延焼を防ぐため、燃えると困る県庁や市役所、軍需工場などの周りの建物を取り壊して空き地を作ること。本格的な本土爆撃が始まった昭和19年ごろから、全国で行われたらしい。もちろん代替えの土地の手当てなどなかったため、父の家族は伝手を頼って市内を数か所点々とした後、今の場所に落ち着いたのだそうだ。

ナンセンスな比較と知りつつ、私がいま手伝っている福島の原発事故被災地の強制避難が思わず重なって見える。

父自身も、もちろん疎開していた。地方に縁故がないので、集団疎開(学童疎開)では知らない土地へ避難したという。学童疎開の対象は小学36年、二人の弟たちは一緒に行かなかったというから、おそらく父が小学3,4年のころの話だろう。疎開先では心細くて仕方なかったそうだ。食べ物といえば水っぽくて不味いサツマイモだけで、常に空腹。ごみ箱をあさって腐った夏ミカンを食べた記憶があるとも言っていた。小学校だけで5回くらい転校したというから、苦労しただろう。今でいうイジメも、なかった訳があるまい。

戦争が終わると、川崎にも進駐軍が来た。米兵の乗ったジープに子供たちが駆け寄って「ギブミーチョコレート」と叫ぶ話は本で読んだが、父も実際それをやったそうだ。本当にチョコレートをくれたのかと聞いたら、本当にくれたんだそうである。さぞやおいしかったに違いない。

その父も、昨年は病気が進行し、足腰はまだ大丈夫だが食べ物が呑み込めなくなった。胃ろうをつけて嚥下リハビリに励み、ゼリー状のものはなんとか口にできるようになったが、この正月は大好きな数の子もかまぼこも食べられない。いくらごちそうがあっても、今度は身体が受け付けなくなってしまった。目の前でお節を食べて気の毒だとは思うが、まだらボケの進行した母は平気で雑煮をほおばっている(笑)

大晦日、大量の賞味期限切れ食材、いくつも口の開いた同じ食材が詰め込まれた冷蔵庫を文句をいいながら掃除するのも、あと何回だろうか。両親の子供のころの話も、聞けるうちにもっと聞いておかなければいけないな。

DSC_0853元旦の今日は、穏やかな晴天。昔なら10分もかからずに歩いていけた近所の神社へ、途中休みながら30分以上かけて初詣に出かけた。

だれでも通る道だから淡々と歩きたい。

<公開翌日に一部追記しました。自分の記録を兼ねたブログのためしばしば追記あり〼>